スタッフ
障がいを考えたとき
そもそも障がいはどこにある?って問いがでる
車椅子の方が階段の上の店にいきたいとき
障がいはどこにあると思います?
不自由になった足?車椅子?階段?
やっぱりどれでもなくて
車椅子の方が階段のうえに行きたい
エレベーターはコストがかかる、場所がない
この考え方の隔たりこそが障がいであると思う
それはどっちも悪くはない
でもお互いが寄り添おうという気持ちが大事で
車椅子の方が一方的に
なんでエレベーターつけないんだ!とかスロープにしないんだ!とかって言うのも違う
お店にはお店の事情がある
しかし、お店も事情ばかりを押し付けるのもやっぱり違うと思う
車椅子でもどういったことができるのかを伝えたり、こんなことはできないかと提案したり、
お店も仮設のスロープなら設置できるとか、できることを考えて
落としどころを探していくことこそが障がいという言葉をなくすことに繋がらないだろうか
とはいえ、当事者保護者として、支援者として、ずっとこの様に考えられてできていたかといえばNoだ
当事者目線で一方的に何でこうしない、何でできない、と、こちらの主張ばかりしていたころがあった
とても理解ある方には伝わる場合もあるが
やはりよく思わない方も少なくなかっただろう
障がいを理解してくださいって、何者でもない私なんかが発信したところで
聞いてくれる人は少ない
『障がい者(保護者)が一番障がい者だと思っている』
誰の文章か言葉か知らないが、この言葉にハッとした
障がいをなくしたいとか、障がいがあってもなくても、とか言ってて
自分が障がい者である娘を分けていたのかもしれない
人間の自分(達)を守ろうとする防衛反応か、
こちらが門戸を開いていないのでは?と
障がいのない方は障がいがあってもなくても気にしてないのに
当事者(保護者)が一番気にして、心配して、自分たちを守ろうといるだけではないか
本当に無意識のなかだったが、そんなことに気が付いたのも数年前
自分たちが社会のなかにでていって
あれはできないから、これはできないから、って
やってもいないのに諦めていたり、こうしないとムリですとか、
こちらから社会に合わせようとしていないのではと思うようになった
もっと自分たちから社会にでていって一緒に考えるスタンスを持たなければ
社会は、地域は変わらない
インフルエンサーでもない、著名人でもない自分たちが変えることって
簡単なことではないことを理解し、コツコツ行動するしかない
ただでさえコミュニケーション得意でない私なんかなおのこと
でも・・?だから?
挑戦してみたい
誰もが住みやすい地域づくりに
肢体も知的も重度の障がいのある娘が住みやすい社会は
誰もが住みやすい社会だと思うから
頭も悪く、言葉も足らないことも自覚してるが・・・
多動力を活かし、想いだけをこめた挑戦は続く