スタッフ

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障がいについて考えてみる

連続3日目も過ぎたので

 

ちょっと真面目に…

 

障がいについて…つらつらと

 

たぶん親であったり支援者でなければ、改まって考える機会は少ないかもしれない

 

 

障がいという言葉・・・あまり使いたくないけど

 

 

今のところ他にみんなに伝わる言葉がみつからないからという理由でやむなく

 

 

スペシャルニーズとも表現する場合もあるが

 

 

まだまだ伝わる人が限定する気がする

 

 

障がいを望んでいるひとは当然いない

 

 

だから障がいを負ったりすると、なぜ私がという絶望に陥る

 

 

多分に漏れず、我が家もそうであった

 

 

今でこそ、障がいのある娘の存在がとてもありがたい

 

 

私は、我が家は、娘にいろんな意味で救ってもらったと思っている

 

 

娘がいて笑顔になる機会が増え

 

イライラしてても見てると心が穏やかになり

 

些細なことに喜びを感じることができ

 

障がいや病気について学ぶ機会をもらい

 

夫婦や兄弟のけんかも娘をみてるとくだらんことだと気づかされるし

 

あんまり適切な言葉がみつからないけど

 

我が家に産まれてきてくれて感謝しかない

 

 

でも

 

間違っても障がいがあってよかったというわけではない

 

 

多くの人はいわゆる健常

 

 

健常であるうちは健康で五体不満足の状態がいわゆる『当たり前』で、

 

 

 

当然、健康であることに感謝することも少ない

 

 

病気やケガ、障がいを経験して初めて『健康であることの当たり前』のありがたさに気が付けるのではないだろうか

 

 

障がいのある娘と過ごす中、いつしか

 

 

この子はいわゆる健常の子どもたちが経験すること、楽しむことは何ひとつできないで

 

 

一生を終えるのだろうかという不安がよぎった

 

 

一人では動けない。こうしたい、ああしたいと言葉でも言えない

 

 

この世に生をうけて、何も楽しいことがなく過ぎ去っていく日々を生きているだけでいいのか

 

 

親や周りが協力して、やればできることはあるのにあきらめているだけなのではないか?

 

 

自分では歩けないし話はできない、けど、いろんなものを見て動いて感じて、

 

 

失敗しても、できることを考え行動し、『生きている』を感じてもらいたい

 

 

親として当然の想いかもしれないが、自分には何ができるかを考え、行動した結果が今だと思う

 

 

行動したのも娘がいたからこそ

 

 

決して十分なことをできているとも思わないし、

 

 

まだまだいろんな挑戦をする環境(人・モノ・考え)を整えなければと思う

 

 

私は娘が産まれた当時に比べれば、今はサービスも増え、障がいがあっても過ごしやすくなってきている

 

 

でも、今、障がいをおった人は足りないを感じるだろう

 

 

もちろんそれは悪いことではない。

 

 

訴えなければ変わらないから。必要なことを訴え、ディスカッションする

 

 

決して押しつけではいけないし、なんでこうしてくれないんだ!だけではいけない

 

 

歴史や過去を知って、先人や先輩たちが積み重ねてきたものを知るとありがたさにも気がつけるのかもしれない

 

 

 

社会との隔たりを埋めるためには、歩み寄りが大事

 

 

だらだらとまとまりなく書いてしまったが、長くなったので

 

 

 

明日、もう少し障がいについて、社会との関係について考えてみたい

 

 

 

Living is not breathing but doing.

『生きることは呼吸することではない、行動することだ』ルソー

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